堂の尾城と赤松氏

~あわくら歴史街道~ H14.1
 
堂の尾城の写真  堂の尾城は、別名塔の尾城、影石城とも呼んでいたようです。場所は、岩倉寺北側の寺山と城ヶ谷山(影石福井重男氏宅裏の谷)の山頂の連なる辺りにこの城趾があり、地区の古老の話によれば、若い頃城跡らしい場所で幾つかの基礎石を見たとも語っていました。相当に高い場所(標高660m)なので、見晴らしの良く効く山城だったことが想像されます。
「太平記」によれば、影石谷に伝説のある悪七兵衛景清が居城していたとも伝えています。
 その後、播磨、備前、美作の三カ国の守護職となった赤松氏が城主となっていますが、代々仏教信仰の篤い家門だったそうで、堂の尾城主として支配していた頃、赤松則村(入道円心)が使っていたという「入子椀」五組が岩倉寺に大切に保存されています。
赤松則村の二男で、赤松筑前守貞範(入道世貞)赤松律師則祐らが、この城に籠っていた康安年中(1361年)に、時の官軍山名伊豆守時氏の軍勢が、因幡の国より押し寄せ攻略してしまい、その時岩倉寺にも火を放ち、焼き尽くしてしまいました。
岩倉寺については、その後明応2年(1493年)、大原町下町にある竹山城主新免伊賀守貞重一族共祈願寺とされたので、その力添えで寺家、五坊が再建されたと伝えられています。(東作誌)
城主は再び赤松氏となり、出羽守備貞が城主となったことが、天保の神社仏閣書上帳に記されています。
なお、この城の築城年代、規模などについては、古書類もなく、不明です。
 
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