黒山城と城主春名新治郎の墓

~あわくら歴史街道~ H13.6
 
城主春名新治郎の墓の写真  黒山城は、西粟倉小学校の東南方向に平坦な頂上の見えるところ、黒山(標高667m)にありました。山の北側は急斜面で登りにくく、南側は東粟倉村吉田地区の小谷を登りつめた所となっており、小谷の構、米ヶ嶽城と呼ばれていましたが、天文年間(1532~1554)に尼子晴久の軍勢に攻略されてからは、尼ヶ城、比丘尼城など、支配者の名前で呼ばれてきたようで、今も山林の小字名にビクニジロとして残っています。城郭は小規模ながら5段状に築かれ、基礎石と見られるものが点在していますが、築城年代などは不明です。
西粟倉は山陰・山陽の国境に位置しているせいか、小城趾として伝えられる所が4ヶ所もあり、その時々の支配者によって構築され、侵略の軍勢に備えたのでしょう。
 村道引谷線を登っていくと、別府青木英隆さん宅上の路端に石組の中央に古い五輪の石塔があり、黒山城主春名新治郎の墓と伝えられています。

※旧西粟倉小学校閉校記念誌掲載の「西小応援歌」(P.21)に、次のような文言があります。

 「見よ 黒山の北麓に/雄々しく建てる学舎は/幾年ここに鍛えたる/鉄より固き健脚の/(以下略)」
新しい西粟倉小学校校歌の3番にも、

 「佐淵の山も黒山も/志戸坂峠も知っている/(以下略)」

と歌い込まれています。

 
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