清水の構

~あわくら歴史街道~ H13.9
 
清水の構の写真  南北朝時代の正平15年(1360年)、山名時氏は伯耆の国から軍勢を押し進め、同16年にはこの地方の吉野郡に迫り、村内では影石の堂尾城にいた赤松筑前守貞範(赤松則村の子)の軍を破り、その勢いに乗じて南下し、大原町内の小原城(小原孫三郎)、大野城(大野一族)鞍掛、林野などの城も次々に攻落されたり、和議により降参をしたりしています。
その後、山名時氏の代(1344~1391年)に至っては大層繁栄して、永徳年間(1382年)に支配していた国々は11ヶ国に及ぶ守護大名となっています。
 このような戦乱と平和の激しい繰り返しの中で、山名軍の知将といわれた人、執事、小林民部少輔重長が居城して地方の治安に善政を布いたという、「清水の構」なる山城跡があります。その山城跡の南側(下手)には、「城山」と呼ばれる字地名もあります。
東作誌(文化12年)の記事によれば、

城郭 本 丸~長さ30間、横6間
   二の丸~6間四方
   三の丸~6間四方(1間=約1.8m) 皿、茶碗などの残片多し

などと記されていて、往時は知社村滝谷山西方の尾根といえば相当奥地で、これほど巨大な構が何故必要だったのか、そして小林民部少輔を始めとしていかほどの軍兵が出入していたのか、村人との係わりはどうだったのか等、興味津々たるものがあります。
 この構の山腹に松の大木があって、その枝に「事を告げる」太鼓が下げられていたそうで、村人はこれを「太鼓松」と呼んでいたと伝えられています。

 
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