草刈與次郎藤原景晴の墓

~あわくら歴史街道~ H15.9
 
草刈與次郎藤原景晴の墓の写真 天正7年5月(1579)大原竹山城主新免伊賀守の軍勢と筏津場ケ原付近まで草刈勢を進めて大合戦を繰り広げましたが、大いに敗れて退却し、長尾村片渕(別府地内)の阿弥陀堂で自刃という非業の死を遂げた悲劇の若大将草刈與次郎景晴の霊を祀る墓があります。
場所は、佐渕城趾山麓の林道佐渕線道路脇にあります。これは與次郎景晴族葉後裔の人々の発菩提心によって建立されたもので、毎年懇ろな墓掃除と香華等が手向けられています。
この地に建立以前は上山根の田中に塚様の墓があったと古文書に記されています。
碑文の書は、金剛憧院、弘舟(岩倉寺現住職竹内清純僧正の祖父に当たる方)書とあり、裏面には、社司野々上武雄(明治22年~昭和26年、村内6社の神職)撰による與次郎景晴の略歴が刻字してあります。その大要は、「因州淀山城主従五位草刈三左衛門衡継の子なり。兄は加茂庄山下、高山城主草刈景継なり。命によって当佐渕旧城に拠って主将となり、天正7年6月小原竹山城主新免伊賀守が攻め来り、筏津場ケ原にて戦い、此の兵に敗れ片渕の阿弥陀堂において戦死す。」と記されています。 

建立者 坂根 草刈文治郎(建立年月不詳) <関連参考事項>
● 山口県大津郡三隅町樅ノ木、了性院(菩提寺)所蔵の過去帳によると、天与禅定門與次郎重久、天正7年7月10日と記載されている。

● 淀山城の在所は、鳥取県智頭町新見(にいのみ)
他説に同町大野原とも言われ、現地は定かでない。

 
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