男でござる天野屋利兵衛

 
男でござる天野屋利兵衛(あまのやりへえ)

 むかし、ムカシ。浪花思案橋詰(今の大阪市)に、表15間半(約28m)、奥行16間(約25m)という広大な角屋敷がありました。屋号を天野屋と祢し、多くの大名屋敷の御用商人として相当に繁栄しておりました。
 天野屋の主人は代々『利兵衛』という名を世襲(代々この名前をうけつぐ)してきましたが、5代目利兵衛(幼名を直之)の時に、事業に失敗し、倒産の憂目に会ってしまいました。そのときに救いの手をさしのべたのが、特殊製塩法により、相当量の塩を全国に売って裕福だった播磨赤穂藩でした。播州赤穂藩は、当時5万3千石の大名でありましたが、御川商人の一人、天野屋は男気があり、この人を失うことは可愛そうだと感じて資金援助をしました。そして以後『赤穂塩』の販売を天野屋にも取り扱わせるようにしたそうです。浅野の殿様の恩顧によって、再び天野屋は陽の昇るように栄え、浪速商人天野屋利兵衛の名を天下にとどろかせました。

 そうこうするうちに、ご存知の吉良上野介義央と浅野内匠頭長矩の江戸城松の廊下の刃傷事件(1701年)が起こりました。この刃傷事件によって、浅野家は断絶。家老大石内蔵助良雄によって復讐(あだうち)の計画が進められましたが、知恵者大石は、吉良邸討入りのとき普通の太刀では戦いにくいので、刀身が短く身幅の広い刀を作るべきだと考え、利兵衛に頭を下げて製作を頼みました。
「よくぞ、この利兵衛ごとき者に……」と涙を流して引き受ける利兵衛でした。
 さて、利兵衛は綿密に武器調達の地を探索いたしました。かつて、利兵衛が商品として取扱ったなかに良質のハガネのあることを思い出し、調べると、”あわくらの里-若杉の村(西粟倉村)″であることが判りました。この地は播州(兵庫県)にも越せ、草深い山奥にあって吉良家・上杉家の動静偵察の目をのがれる上にも好適の地であり、これ以外にないと決めました。

 さて、次に利兵衛が頭を痛めたのが刀鍛冶職人てす。歩いて歩いて求めたのが播州三木の庄の刀鍛冶職人数名でした。利兵衛自らも妻子、家人に湯治と祢して『若杉の村』に入り武器造りの監督をしたそうです。
 武器を造り、その仕上げの磨きに用いるヤスリには、植物で磨くことを考え、播州徳久の庄より大量の磨草を求めました。
 日夜、利兵衛は武器製造に職人と共にはげみました。しかし、妻子、家人にいつまでも湯治と嘘を言ってはいられません。時には、浪花の天野屋に帰り、家業を見ますが、男気のある利兵衛は、大石内蔵助から頼まれた武器のことが頭から去ることはありません。利兵衛は、しばらく浪花にいると、また湯治と言っては家を後にいたします。利兵衛があまり頻繁に湯治に出かけるため、ある日、妻のおかよが「何処の湯治場へ行がれますか……」と、尋ねますと、利兵衛は「但馬の若杉の村(今の兵庫県養父郡大屋町若杉の地)によい湯治場がある……」と答えたそうです。この一言が、後日上杉家の密偵(スパイ)が但馬の里を偵察したとき役に立ちました。密偵は、武器製造の噂は嘘であったと報告し、利兵衛が無事武器を造りおおせたという話も残されているそうです。

 苦労は利兵衛だけではありません。刀鍛冶職の人々も武器の仕上げまで家に帰ることはできません。時には三木の庄や家族のことを想い出し、若杉渓谷にたたずんで涙したことでしょう。
 元禄15年7月武器の搬出に苦労した利兵衛は、あれこれと考えあぐんだ上で、この地に繁茂する『茅』に武器を包み。”山芋の包”に似せて運搬することにしました。赤穂浪士の義挙後.この地を”大茅”と言うようになったという人もいます。
 本多肥後守・森伊豆の守・脇坂淡路守の理解ある計らいによって、その領地・間道を抜け、室港より224里(陸路なら155里)を数十日かかり江戸まで運び、無事家老大石内蔵助に届けることができました。
 徳川幕府の治政下、太平の時代に、武士も庶民も軟弱に流れ、人を助けることを忘れ、義を失った江戸中期、頃は元禄15年(1702年)12月14日、降りしきる雪の中を、大石内蔵助の”山鹿流の陣太鼓”に導かれての仇討ちは、江戸市中に大評判をまきおこしました。後の世に、本に書かれ、芝居に、浪曲に人々の涙をしぼりました。つい昨年のNHK大河ドラマでも放映されたばかりですね。
 しかし、仇討ちのかげには、利兵衛の深山幽谷での苦労があったのです。
 利兵衛は、慶安5年7月12日(1652年)に生まれました。幼名の直之は、浅野内匠頭長矩が祖父長直の『直』の一字をおくって名づけたと言うことです。このように利兵衛は浅野家とは深い因縁があったのです。
 さて、大石良雄は、武器を受け取った際、涙を流しながら利兵衛に.一片の色紙を贈りました。

 

 

天野屋利兵衛の絵 

『町人ながら義に強く、意地を通じて侠気の
     武士も及ばぬ魂は 亀鑑と代々に照返す』

出典:『にしあわくらの民話』西粟倉村教育委員会 絵:成瀬國晴氏(日本漫画協会所属)

 

 

この色紙は、今も菩提寺に宝物としてのこっているそうです。
 『男でござる』の利兵衛も病には勝てず、享保12年1月27日(1727年)に75才でこの世を去りました。東京都芝泉岳寺の赤穂浪土墓院の門前に、天野屋利兵衛の碑があり、京都府一条椿寺に、法正院空誉上斉善士しの幕碑があって、この地に義商天野屋利兵衛が眠っているそうです。
我が郷土、西粟倉の有名人のお話でした。